信仰告白

私は、幼い頃より、神様はどこかで見守りながら助けて下さると思っていました。腹痛や頭痛時は、「早く治りますように」と祈り、痛みが無くなったことを覚えています。近所の友達と日曜学校に行きましたが、遊びや運動に忙しくなり、何時しか遠のきました。

自分自身に結果を求められる年齢になり、努力は報われるとの思いから、常に前を向いて歩いてきました。そして、今まで、家族、友人、知人、健康、仕事等に恵まれ順調に過ごす事が出来ました。しかし、全てが順調だったわけではなく、高校も大学も就職も第一志望は叶わず、意に反する転勤や転職もあり、何度か思い悩み苦しい時を経験しました。ところが、そこで出会った多くの人に助けられ、とても良い場所で良い時間を過ごせました。何故か、希望が叶わなかったことが、かえって良かったとさえ思えます。

また、自分本位の言動には気をつけてきましたが、多くの人との出会いの中で、相手に対して不快な思いをさせ、迷惑をかけたことも数多くあったはずです。それでも、多くの人に支えられ事なきを得てきました。

仕事に夢中な人生の中程で、ふと後ろを顧みるようになりました。今の自分があるのはなぜか、良い出会いがなぜあったのか、恵みはどうしてかと、漠然とした思いの中で、「神様の導き」に違いないと気づきました。しかし、神様は私をどの様に導いて下さったのか、そこまでは考えが及びませんでした。そんな時に遠藤周作さんの著作の中に「神様の働きとは背中を押してくれる感じ」という言葉を見つけました。神様は私の後ろで、私の歩みに合わせて背中を押して下さっていたのです。私の中にある霧が晴れました。そして、神様は私を原町田教会へと導いて下さいました。

原町田教会の礼拝に出席し、宮島先生から神様の御言葉を聞き、イエス様の奇跡や癒しを学び、聖書や色々な書籍を読んでいると、私は大きな罪を犯していたことに気付きました。それは、長い間、神様に向き合うことも祈りも賛美も忘れていたことです。しかし、神様はそんな私にも憐れみ恵みを下さり、知らぬ間に相手を思いやる気持ちと行動の大切さも教えて下さっていたのです。ルカによる福音書6章36節「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」と書かれています。しかし、まだ私は神様の意に沿う者になれていません。今からでも、神様の御言葉に少しでも近づければと願っています。

(60代・男性)