証し
私は昭和29年の生まれ、戦後の団塊の後の世代です。「若いね」と言われることもありますが、孫が遊びに来ると年齢を取ったことを強く感じます。今から5年前から礼拝に参加させて頂き、2年前のイースター時にバプテスマを受けました。
現在、サラリーマンを卒業し小さな会社の手伝いをしながら、半分仕事半分好きなことをしています。年齢と共に体の衰えを感じはしますが、大きな病気やケガもせず薬を飲むこともなく、娘も息子も所帯を持ち孫が三人、我が家の跡取りも生まれ、小さな悩みはたくさんありますが、大きな問題はありません。少しおかしな言い方ですが、充分にまた無事に生活が出来ています。
では、今まで順風満帆だったかと言えば違い、小さい頃から「努力は報われる」との思いで努力したつもりでしたが、全てに結果が出た訳ではありません。今思えば努力も実力も足りず、当然の結果です。しかし、不思議なことに結果が出なかったことが、今の自分につながっています。進学も就職も希望通りでありませんでしたが、それぞれが自分に合った場所であり、今では希望通りでなかったことが良かったと思っています。神様が私に寄り添ってくださり、きっと「そっちじゃない、こっちに行きなさい」と背中を押してくれていたのでしょう。私は神様に生かされ生きてきました。ただただ、感謝しかありません。
座右の銘と言えば大袈裟ですが、私の好きな言葉を紹介します。それは、皆さんよくご存じの「人事を尽くして天命を待つ」です。元は中国の儒学者の言葉が由来です。「人として出来る限りのことを行い、その結果は天の意思に任せる」という意味です。言葉を知ってからは、何かに挑戦する時はいつでもそう思ってきました。ただし、常に全力を出したわけではなく、サボったこともあり、もっとやっておければと後悔もたくさん残っています。時には手を抜いても上手くいくことがあり、また、何か危ないと感じても何も起こらず無事で済んだりすると、運が良かったと思いました。運とは「その人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせ」という意味です。私は小学校の時に近所の教会の日曜学校に少し通いましたが、長い間神様を忘れていましたので、当時の私には天命も運も同じようなものでした。しかし、いろいろな出来事を経験すると、次第に何かの力、神様の力が働いているのだと気づきました。
神様の御言葉を聞くようになって、少し気になることができました。神様があり私たちがいるので、むしろ「天命があり人事を尽くす」のではないかと思いはじめました。出来る限りのことを行い、あとは神様にお任せしてはいけないのでしょうか。聖書の中にあることに気が付きました。パウロはイエス様の声を聞き、福音の旅に出て、エルサレムに行こうとした時のことです。使徒言行録第21章にあります。預言者が「パウロがエルサレムで捕えられる」と言います。周囲の人々はパウロに「エルサレムに行かない様に」と頼みますが、パウロは「イエス様の為なら覚悟している」と言い、エルサレムに向かいます。そして、周囲の人々は「主の御心が行われますように」と祈ります。パウロの心境はまさに「人事を尽くして天命を待つ」ではなかったでしょうか。パウロはエルサレムで捕えられ、ローマ市民でしたのでローマへ連行されます。そして、使徒言行録の最後は、パウロはローマで訪れた人々に神の国・イエス様を伝えたとして終わります。まさに神様の御心が行われたわけです。
パウロはイエス様の声を聞き福音の旅に出ましたが、私は神様が寄り添ってくださり人生を送ってきました。今まで世の中に役立つことや自慢できることをした訳ではありませんが、これからも今まで通り人事を尽くして天命を待ちます。以前は「人事を尽くすて天命を待つ」という言葉を、結果の出ない時の言い訳に使っていたようです。今では、結果がどうであれ、その結果を受け入れることが出来るのではと思えます。私は神様に背中を押されて歩いてきました。時には、神様は方向を変えてくださり、そして私は今日まで歩いてきました。また、明日からも歩きます。神様の御心が行われますように祈りながら。
(礼拝後の「証し」にて) (60代)