主からいただいた恵みは

「主から頂いた恵みは何か?」と考えると、母がクリスチャンであったことから、その信仰を幸いなことに受け継ぐことができたことだと最近思うようになりました。
母のことで恐縮ですが、今年81歳の母は、高校生のとき受洗をし、結婚後は子どもたちを日本基督教団付属の幼稚園に入園させ、日曜日も教会学校へ通わせていました。そのおかげで、私は幼いころから教会につながることができました。そして、そのまま、すくすくと成長し、信仰生活が守られ受洗をしましたと言いたいところですが、中学生、高校生の頃は、教会での交わりが、少し鬱陶しく感じていました。思春期からか、礼拝生活は守っていても、不機嫌そうに座っていたことの方が多かったと思います。ですが、教会学校時代から聞いていた、神様が私のために十字架についてくださったことは心に響いていました。また、洗礼は「神様のことは幼いころから知っているし、もっと大人になってから受けても十分間に合うのでは?」と思っていましたが、高校生2年の冬に決心し受洗することになりました。そのきっかけは、母の信仰の姿だったと思います。実は、当時、実家の自営業は経営が思わしくありませんでしたが、母の信仰は変わらず、教会生活を送っていました。今にして思えば、思春期にもかかわらず、受洗にまで導かれたことは、本当に感謝です。 
私は現在、非常勤講師として、働いています。日々、様々な特性を持った学生たちに出会います。教育的配慮が必要な学生に適切に対応することは義務であることを頭では理解していても、出した課題に対して、教師側の期待に届かない時など、できないことばかりに目がいきがちです。ですが、受洗前も受洗後の自分も振り返ってみれば、“あかし”どころではなく、“やらかし” ばかりであることに気づかされます。
このような私のために、“クリスチャンの母を備えて早く神様と出会えるようにしてくださっていた”というのが、主から与えられていた恵みではないかと感じています。

 (礼拝後の「証し」にて)(50代)