私の心を自由にして下さったキリスト

父は昭和13年、高校教師として軍事教練のために引率した白馬山で遭難死をし、23日後に私は誕生し、10才の時、母も病死、祖母と叔母に戦後の苦しい時代を養育してもらいました。その叔母が長野教会員だったので、強制的に教会に行かせられました。高校の頃は将来への希望はなく絶望的な思いで暮らしていた事を今でもはっきり思い出します。唯、長野教会の小原福始牧師が講壇をたたいて「キリストは我々に本当の自由を下さった。だから決して再び不自由なくびきにつながるな」との説教だけ印象深く頭に残っていました。しかしそれがどんな意味をもつ自由なのか理解出来ずに過ぎました。若い頃は、仕事、家庭、育児に追われていました。長年の礼拝出席、若穂会、祈祷会、聖書研究会に出席して、聖書を初めて主体的に学ぶ意欲を持って読んでみて知りました。

「キリストは自由を得させんために我らをとき放ちたまえり、然れば堅く立ちて再び奴隷のくびきにつながるな」ガラテヤ5章1節の言葉だったのです。16節に「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」とあるのです。私の様に富もなく学もなく社会的地位も美しさもない人間が生きる道はこれしかないと思ったものです。「あなたの子供は優秀です」と言われたことも一度もなかったけれど、決して駄目だと思わず、人と比較せず、自分の心をすべて開け渡して「私は本当に駄目な人間です。神さま助けて下さい」と祈り、精々私の出来る限りのことは精一杯して生活していこうと思った時、本当に心が軽くなりました。腹の立つことも沢山ありますが、その人と対面して「私は違う思いです」と言葉に出して言う努力をして心に蓄積しない様にしています。全く私の考えとは正反対の人も世間にはいますが、その人も神が私と同様創り出して私の近くに置いて下さったこと。相手も私を見て何と嫌な人間が世の中には居るのだろうと思っているかもしれないと思うと楽しくなって来ます。

私達は一人一人違う人間として神様が創造して下さったのです。聖書には多くのタラントを神から預かった者はそれなりの働きと責任を持たなければならないことも書いてあります。私達は人を恨み、妬み、批判したりする時間があったら自分自身がどんな時にも心を静かにみつめて神と対話し自立した心を持てる様になりたいものだと思います。
人間を本当に罪から自由にして下さった神の愛、慈しみ、哀れみを思う時、感謝の気持ちが一杯に心にあふれて来ます。

「本当にありがとうございます。」と喜びを言葉にしながら生活していきたいものだと思っています。

(70代)

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