「この病気は死で終わるものではない」

2024年9月29日 主日礼拝説教 宮島牧人 牧師

ヨハネによる福音書11章1〜16節

ヨハネによる福音書11章4節「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」これが今日、わたしたちに与えられた福音の御言葉です。

イエスはエルサレムの近くにあるベタニアという小さな村によく足を運んでいました。それはヨハネによる福音書だけでなく、マタイやマルコ福音書でもイエスがベタニアに行ったとあることからわかります。ベタニアにはイエスが愛する人たちがいました。11章1節「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。」当時のイスラエルで重い皮膚病を患っていますと生まれ育ったコミュニティーから出ていかなければなりませんでした。重い皮膚病にかかり、それが治らなかった場合は「宿営の外に住む」、つまり自分のコミュニティーから出ていかなければならなかったのです。ただ独りでコミュニティーから離れて生活することはできません。そこで考えられたのが隔離された人たちの暮らす小さな村です。ベタニアはその一つだったのです。新約聖書の時代には、自分が生まれた故郷、また家族から引き離されて皮膚病を患った人たちだけを隔離する村がいくつかあったと考えられます。

イエスは重い皮膚病を患い隔離村ベタニアにいたラザロとその姉妹たちを心に留めていました。けれども、この時イエスはラザロの姉妹マリアが遣いの者を送って「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせたにもかかわらず、すぐにベタニアに向かおうとはしませんでした。イエスはこう言いました。ヨハネによる福音書11章4節「イエスは、それを聞いて言われた。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。』」

わたしは精神の病で長く入院生活をしている方と手紙のやり取りをしています。その方が先日、手紙の中でこの4節の言葉を引用し、このように書いていました。「わたしの精神病も軽くありません。でも、この病気も神の栄光を現すためにあると考えると希望がわいてきます。」病気のゆえに入院生活をせざる得ない方にとって病気はできれば早くなくなってほしい存在です。この方はその苦しさを手紙の中でこう言っています。「わたしは精神病を発症すると、心の中でイエス様を追い出してしまうのです。祈るにしても心が嵐のようで祈れません。どうしようもありません。悔い改めたくてもどうしようもありません。」病気は辛い、それでもこのイエスの言葉に希望を持つのです。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」この病気の自分が、病気を抱えたままで神の栄光のために用いられる。治ってから、完治してから神がわたしを用いるのではなく、病気のわたしのままで神は栄光を現してくださるとイエスは伝えているのです。

イエスはラザロの姉妹たち、マリアやマルタが願っていたようにすぐに来ることはありませんでした。6節にあるとおり、「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」のです。しかし、イエスは三日後になってからユダヤ地方にあるベタニアに行くことを決意します。7節「それから、弟子たちに言われた。『もう一度、ユダヤに行こう。』」「ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」とその決意に驚く弟子たちでしたが、イエスは14~15節「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」と言って歩き始めたのです。

イエスはすぐに病気のラザロのところに駆けつけることはありませんでしたが、病気で死んだラザロのところには来られました。11節でイエスが言われている通り死んだラザロを起こすために行くことにしたとも理解できます。後にラザロは死から起こされるのですが、わたしたちはこれを二千年前に起きた1回だけの出来事として理解するのではなく、これまでもそしてこれからも起きる神の栄光として受け止めたいのです。なかなか治らない病気で辛い経験をしている一人一人にイエスが「あなたの病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」と言われ、その人の中に生きる希望が立ちあがる出来事として受け止めるのです。病気の行き先は死だけではありません。病気の中にありながらも生きる希望を持ち、希望の言葉を語ることは可能です。イエスを救い主として信じるわたしたちにとって病気は決して死では終わるものではないのです。

先ほど紹介した、今も入院生活をしている人の手紙の中にはこのようにもありました。「毎日、聖書を読み、祈り、FEBCを聴く。(FEBCというのは、世界各地でキリスト教に関連した放送を専門に行う団体で、主にラジオを通して説教や讃美歌などを配信しています。)これを自分のものにしなさいと神様から言われているのだと信じます。頭痛は辛いですが、これも『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』という聖句を信じていくのです。5年、10年後に今のこの時間がとても大きかったと思えると理想的だと思います。わたしは5年、10年前はどこか『早く死んでしまいたい』と思っていました。誕生日を迎えると『ようやく1年間、時が流れた』と思っていました。でも、神様と出会ってから時間はかかりましたが変わってきました。確かに変わってきました。時間が流れるのが勿体無いと思えるようになってきました。何か過去の辛かった事がどうでも良くなってきました。イエス様と出会えた事によって神の子とされたことの恵みの大きさに今までの辛さが溶けていくようです。神の子ですよ。何と素晴らしいことでしょう。もう死にたいとは考えていないのです。」わたしはこの手紙を読んで返事の手紙にこう書きました。「この手紙に書かれているあなたの信仰の証が今度は他の人を励ますことになります」と。病気であってもイエスと出会い、自分が神の子とされたことを喜び、もう死にたいとは思わなくなったと言えること。この方はイエスを救い主として信じ、病気をもった自分を子どもとして愛してくださる神と出会えたこと、その救いの出来事を心から喜んでいるのです。まさにイエスの言われた御言葉がこの方のうちに実現しているのです。「あなたの病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」神はわたしたちがマイナスでしかないと思うようなものでも栄光のために用いてくださいます。マイナスでしかないと思う病気であっても死で終わるのでなく栄光のために用いてくださるのが、わたしたちが信じる神なのです。

神の栄光とは、たくさんの人に認められ、きらびやかで輝くようなことではなく、わたしたち一人一人の心に生きる希望を与える光です。イエスは言われました。11章9~10節「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」当たり前のことを言っているようですが、病気との関連で考えるとこのイエスの御言葉は深い意味を持ってきます。病気になってなかなか治らない状態が続きますと心が暗くなってまるでいつも夜の道を歩いているように感じてしまいます。けれども、光であるイエスが心の内にいてくだされば、つまずくことなく歩いていけます。「あなたの病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。」という御言葉なるイエスがわたしたちの心の中にずっといてくださいますから、わたしたちは病を恐れず、病気になっても希望をもって生きていくことができるのです。