「わたしは復活であり命である」

2024年4月28日 主日礼拝説教 メンセンディーク・ジェフリー宣教師

ヨハネによる福音書11章17〜27節

ヨハネ11章はちょうど福音書の中盤になります。ここまでにイエスの7つの「しるし」が続きます。福音書記者にとって大事なのはイエスが復活の主であり、救い主であることを宣言することです。ですから、7つのしるしはイエスの身分証明というか、この方こそ救い主であることを説得するためのものです。11章の流れはまずラザロの死、それを巡るマルタとマリヤの混乱、そしてイエスがラザロを復活させる物語となっています。これは実はイエスの復活を予告するものです。44節に「すると死んでいた人(ラザロ)が、手と足を布で巻かれたまま出てきた」とあります。ラザロの体にはまだ布が巻かれていて死の痕跡がまとわりついています。一方、イエスの復活を記すヨハネ20章5節には、婦人たちやペテロがイエスの遺体が置いてある場所に行って「身をかがめて(墓の)中をのぞくと、亜麻布が置いてあった」とあります。イエスご自身の復活には死の匂いも痕跡もありません。死から全く自由になったことが宣言されています。ラザロの復活物語はヨハネ福音書特有のものです。ですからヨハネ福音書著者特有のドラマの作り方が色濃く出ています。この後、ラザロの復活をめぐって二つの対照的な反応が描かれています。

まず、ラザロの復活が呼び起こす一つの反応はパーソナルな信仰の決意です。25節:「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも決して死ぬことはない。」そしてイエスはマルタに聞きます。「このことを信じるか?」するとマルタは答えます;「はい主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じています。」これはマルタの信仰告白です。弟子のトマスの物語(20:28)にも同じ個人的信仰告白を見ます。復活の主の脇腹に手を当ててからトマスは言います。「わたしの主、わたしの神よ。」復活の出来事はパーソナルな信仰(わたしは信じます)という決意を呼び起こします。一方、ラザロの復活が呼び起こすもう一つの反応は対立です。11章45-53節の内容を見ますと、ラザロの復活はイエスの死を確実にする出来事だということが分かります。このように見ると、11章はヨハネ福音書の中で大きな転換点となっています。この後、イエスのしるしは一つもありません。ラザロの復活を機に、信仰の道を選び取る人と、イエスをないものにしようとする人とが分かれます。

この復活物語にはもう一つ考えさせられるところがあります。ラザロ自身について言及がありません。また、ラザロが死人の中から復活したのであればもっと喜びの様子が描かれてもいいはずですがそのような様子もありません。むしろその逆です。姉妹(マルタとマリア)とその共同体は泣いています。そして、イエスも涙を流したとあります。喜びよりも悲しみの様子の方が丁寧に描かれているのはなぜでしょうか?ここに描かれているのはまぎれもなく深い悲しみの空気です。立ち直ることのできないほどの絶望です。復活は悲しむ人たちの苦しみに寄り添う形で描かれています。もう一つ注目したいのは姉妹に対する言及が多いのに対して、ラザロ本人についてはまるで第三者敵扱いになっていることです。ある注解書では、ヨハネ福音書は、実際にマルタとマリアという姉妹が属していた共同体に向けて書かれたもので、その共同体に対して「あなた方は復活をどう見るか」と、問うているのではないかと言っています。死人のようになっている兄弟、身動きがとれない姉妹。このような教会員がいたとして、イエスは彼らにどのように語り掛けるのか?43節:「出てきなさい」。すると44節にあるように共同体は彼を「ほどいて」やるのです。主の招きと、共同体の助けによって死人は解き放たれます。そう考えると私たち教会員には大事な役目があると言えます。兄弟姉妹が死の淵に沈んでいるとき(生きていても死人のようになることもありますよね)、信仰者の群れは大切な役割を負っていると考えることができます。

さて、「復活」とはギリシャ語のアナスタシスの訳です。これは動詞アニステーミの名詞形で、「立ち上がる・立ち上がらせる」という意味になります。自動詞(自分で立ち上がる)、または他動詞(誰かを立ち上がらせる)として用いられます。横に倒れているものが立つ、あるいはそれを立てることです。わたしも30年ほど前に、東北で信徒4人の小さな伝道所で牧会をしていた時、彼らの信仰に触れて自分の信仰が立たされた経験があります。まるで神様に「床を担いで歩きなさい」と言われたような体験です。皆さんもそのような経験はないでしょうか。横になっていた自分、死んでしまっていた自分、または長年の信仰生活に胡坐をかいていた自分。それが教会の交わりを通して立たされるのです。これは復活の出来事と言えます。キリスト者の希望は言うまでもなく、キリストの復活です。使徒パウロが言うように、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(第1コリント15:13)主の復活が二千年の時を経てこうして私たちを呼び集めて立たせてくれるのです。

イエスもまた立ち上がる人でした。例えば誕生して間もないのころにヘロデ王に命を狙われてイエスの家族はエジプトへ逃れました。また敵の手に捉えられそうになりながら、石打にされそうになりながら、逃げ回る様子がヨハネ福音書で描かれています。ある時は地元にいることができず外国(フェネキアのテュロス)に逃げて身を隠したこともありました。それでもイエスは立ち上がります。パウロの次の言葉が信仰者の生き方を示してくれます。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(第2コリント4:8)イエスもまたその一生を通して神様に信頼する「立ち上がる」信仰の持ち主でした。

「わたしは復活であり、命である。」これはイエスご自身を指している言葉でもありますが、復活信仰に生きる私たちをも指しています。そのことを教えてくれた出来事があります。17年前のことです。私の友人であるT子さんというクリスチャンがインドで交通事故に巻き込まれて亡くなりました。夫のWさんはインドに駆け付け、T子さんのご遺体を日本に送り返しました。事故が起きたのはインド農村部の一本道でした。無茶な運転をしていたバス運転手がT子さんの乗った車を追い越そうとして起こした事故でした。Wさんは私たち関係者と共に事故現場に赴き、そこで祈りを捧げました。「神様、ここに一粒の麦が地に落ちて死にました。あなたは命の主です。あなたがこの地から命の実りを生み出して下さると信じます。」深い悲しみの中から絞り出すような祈りでしたが、その言葉には一人のクリスチャンとしての信仰が言い表されていました。深い絶望の中から、キリストにある希望の道を確信して祈ったのです。その後Wさんは現地のクリスチャンたちと一緒に「T子プロジェクト」という小さな奉仕活動を立ち上げ、インド農村部に暮らす女の子たちの教育支援を始めました。T子さんは高校教師であり、女子教育に深い関心を持っていました。インド農村部では女の子たちが学校から中退し、若く結婚させられる傾向があります。「T子プロジェクト」は女性たちが中退しないで済むように、各家庭に働きかけて娘たちが教育を継続できるように説得し、勉強するスペースと時間を家庭内で確保することや、他の女の子たちと切磋琢磨して高校卒業のための試験に備える下支えをします。毎年30名の女の子たちがこの支援を受け、夢をもって勉強し、卒業すれば社会人として仕事を持ち、家族に収入をもたらし、また、自分が結婚した時には夫と対等な関係を持つことができるようになります。こうしてWさんの祈りは神様に祝福されました。インドの農村に小さなT子さんたちが育っています。

私はWさんの信仰に心動かされています。深い悲しみの中で、彼は見ないのに信じたのです。命の主が生きて働き、無から有を生み出すということを。T子さんの生涯がそこで終わるのではなく、主にあって生き続けると信じたのです。先ほど、ヨハネ福音書11章には喜びよりも悲しみの記述の方が多いと言いました。私たちの人生はそういうものではないでしょうか?生きることが辛いと言葉もやる気も失うことがあります。しかし、神様はそういう私たちを見放さず、しっかりと支え、復活の希望に生きる者としてくださいます。私たちを立たせてくれるのです。私たちが倒れてしまいたいと思う時にも、雄々しく立たせてくれます。Wさんの信仰から私たちは、神様が今も生きて働き、その力強い御手によって「愛する者たち」を復活の証人としてくださることを知らされます。願わくは私たちも、人生の節目に差し掛かったときに、マルタやマリヤ、トマスなどのように、「主よ、あなたがメシアであることを信じます」と告白できますように。その信仰の訓練を私たちは今日もここで共に重ねています。