「あなたの道を行きなさい」

2024年6月30日 主日礼拝説教 宮島牧人 牧師

ヨハネによる福音書4章43〜54節

イエスはエルサレムの神殿に行った後、サマリアを通ってガリラヤに戻られました。故郷のガリラヤに戻られたイエスは4章44節で「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われましたが、45節を見ますとその言葉とは裏腹にガリラヤで歓迎されたとも書かれています。4章45節「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。」イエスを歓迎したのはイエスがエルサレムでしたことをガリラヤの人たちは見ていて、「イエスよ、よくやった」と喜んでいたからだです。ヨハネによる福音書では、4章までにイエスがエルサレムでしたことが、2章13節以下に書かれています。

イエスは神殿に行き縄で鞭をつくり、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金を撒き散らし、その台をひっくり返されました。当時のユダヤ教の信仰の要であった贖罪儀式をイエスは「それは違う」と伝えたのです。神殿では日常的に牛や羊、鳩などの動物が人間の罪の身代わりとなって捧げられていました。別な言い方をすれば罪が償われるのです。イエスはエルサレムの神殿で行われていた贖罪の儀式に対して、それは間違っていると声を上げられたのです。だからイエスはその後イスラエルの権力者によって殺されたといえます。イエスが命をかけて伝えようとしたのは、人間が神に捧げ物をしたから赦されるということではなく、命の神は常にすべての人間と共にいてくださり、愛し、すでに赦しておられるということでした。

今日の出来事の背後にもそのイエスの考えがあります。王に支えていた役人がカファルナウムからイエスのところにやってきて「息子の病気をいやしてほしい」と頼みました。当時、病気の人がいた場合は、まず何か罪を犯したから、その結果病気になったとなり、その罪を赦してもらうために犠牲の捧げ物をしてきなさいと言われて当然でした。イエスはまずこの役人にこう言いました。48節「イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた。」神はすべての人間と共にいてくださり、愛し、赦してくださっているという福音を伝えてもそれを目で見える形で示さないと信じないとイエスはこれまでに何度も言われてきたのでしょう。しるしや不思議な業を人々が見たいと願うのは、目に見える形で行われていた犠牲の捧げ物の儀式があまりにも強く人々の心に残っていたからだと考えられます。目に見える捧げ物をしたから赦されるのであれば、神は目に見える形でわたしたちにしるしを与えてくれるはずだ。そうでなければ、本当の神ではないと思う人もいたのかもしれません。でもイエスは違いました。イエスは神がすべての人間と共にいて愛してくださっていると心から信じていましたし、また人々にもそれを信じて生きてほしいと願っていましたから、あえて彼に「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われたのです。しるしも不思議な業も一切見せないが、すべての人間と共にいて愛し赦す神をあなたは信じるかと問われたのです。

すると藁にもすがりたい思いで、49節「役人は、『主よ、子供が死なないうちに、おいでください』と言った。」のです。イエスは彼が目に見えるしるしではなく心から愛の神を信じますと必死に言うその姿に彼の信じる気持ちを受けとめられました。そこでイエスは役人にとてつもなく広く、深く、高い神の愛を伝えます。50節「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」英語の訳では、「Go your way. Your son lives.」となっています。「Go your way」あなたの道を行きなさい。このイエスの言葉を聞いて、役人はきっと涙を流したはずです。こんなだめな父親のわたしでも神が息子を助けてくれると信じてその道を進んでいっていいんだとイエスが言われたからです。息子が病気になって死にそうになっているのは自分があの時、すぐに対処しなかったからだと彼は後悔していたかも知れません。カファルナウムからガリラヤのカナまでの距離は30キロメートルほどでしたから、急いで歩いても6時間から7時間はかかりました。歩きながら彼は息子をこんな状態にしてしまったのは自分のせいだと自分を責めていたかもしれません。死にそうになって苦しむ息子を置いてイエスに会いにきた彼は自分のことを責め、だめな父親だと感じていたはずです。けれどもイエスは彼に「Go your way. Your son lives.」あなたが信じている道を進めば、必ず道は開かれる。「あなたの息子は生きる」と言われたのです。こんなわたしでも愛の神を信じて自分の道を進んでいいんだ。息子は死ぬのではなく生きるんだ。その人はイエスの言葉を信じて帰って行きました。

イエスがエルサレム神殿でしたこと、そしてカファルナウムの役人を愛の神に導き救われたことを、それから1500年経ったドイツで同じようにした人がいます。当時、カトリックの司祭だったマルチン・ルターです。当時のドイツは神聖ローマ帝国の中にありましたので、ローマ教皇レオ10世が、ローマにあったサン=ピエトロ大聖堂を改築しようとしました。この改築には当然多くのお金がかかります。そこでレオ10世は悩み、考えて資金を確保するために贖宥状(免罪符)の販売を始めたのです。修道院の説教者はその頃、道を歩きながらこんな風に人々に伝えていたようです。「お前たちの死んだ両親は、生きている間に償いを果たし終えないで死んだから、今は煉獄というところで火の苦しみにあっている。だからお前たちに向かって『息子よ、助けてくれ。わしらはお前たちを生み育て、財産も残してやったではないか』。そう泣き叫んでいる声が聞こえないか。さあ、どうする。お前たちは煉獄で苦しむ親たちのために、何もしてやらないのか。びた一文すら出さないのか。金貨がたった一枚、この箱の中でチャリンと音を立てるだけで、煉獄の苦しみはたちまち消え、親たちは天国にあげられるというのに」。説教者は大きな集金箱を抱えて、免罪符のお札をひらめかしながらこのような説教をしていました。チャリンと箱にお金を入れれば、そのお札がもらえて罪の償いが免除される。

マルティン・ルターはそのような罪の赦しの説教に対して強い怒りを覚えました。説教者としての彼は何かをしなければと強く思い、大学での討論で神学の提題として4点を発表しました。その中にこうあります。「律法とそれにもとづく人間の行いによっては、人間は救われないこと」。そして1517年、この贖宥状発売に対してルターは「九十五ヶ条の論題」を発表したのです。そこには、はっきりとお札を買うことではなく、人は神を信じることによってのみ救われると書かれてありました。

イエスがエルサレム神殿で贖罪の犠牲によって人の罪が赦されるという儀式を批判して商人の両替の台をひっくり返したのと同じです。お金や動物の犠牲を神はわたしたち人間に求めてはいません。神は常にすべての人間と共にいてくださり、愛し、すでに赦しておられるのだから、その神の愛を信じて生きていくところに救いがあるのです。「Go your way. Your son lives.」「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」とのイエスの言葉を聞いた役人はその言葉に力づけられて30キロ離れたカファルナウムに帰っていきました。50節「イエスは言われた。『帰りなさい。あなたの息子は生きる。』その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。」

聖書に出てくる人たちはわたしたちと同じように失敗し、人を傷つけ、自分も傷つく罪ある人間です。そんなわたしたちにも関わらず神は「わたしはあなたがたと共にいる」と言い続けてくださっています。イエスの今日の御言葉も神があなたと共にいるから安心して行きなさいと受け止められる言葉でした。「Go your way. Your son lives.」「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」