信仰告白

自分は小学生の頃、父が働いていた福祉施設の教会で礼拝に参加していました。当時は幼かったこともあり、御言葉の意味や儀式の意味を理解しようとはしていませんでしたが、神様はいつも私たちを見守ってくれているそういう感覚はなんとなく持っていました。
そこから数年が経ち父の職場が変わると、私が礼拝に行く機会は徐々に少なくなり、教会から少し距離を置く期間ができました。丁度その頃、私は中学に入ったばかりで、難しくなった勉強や、前より複雑になった人間関係により大きなストレスを感じていました。
そんな状況にいた私ですが、小学3年生の頃から「トゥレット症候群」という神経系の疾患を患っていました。この疾患は、ストレスが溜まると症状が悪化し、集中力が続かなかったり、瞬きのような特定の動きを反復的に繰り返してしまうなどの症状が出ます。私は軽度だったのもあり、なんとか日常生活を送れていましたが、思うように行動できないことへのストレスで、さらに疾患が慢性化するという悪循環が延々と続きました。
この時は本当に学校が好きになれず、行くのも苦痛でしたが、唯一楽しみだった歴史の勉強で気分を紛らわせていました。自分は特に西洋の歴史が好きで、この分野だけは自分から色々本を読んだりしていました。ヨーロッパの歴史や文化を勉強していると、そこで実際に生きていた人たちの生活や考え方、文化の根底に、必ずといっていいほどキリスト教の存在が強く関わっていることが分かります。自分は、何度も教科書や本に出てくるキリストの御名を見ているうちに、昔教会に通っていた記憶がふと蘇ってきて、こう思うようになりました。
「当時理解できなかった御言葉の意味、儀式の意味、キリストを信じる人々がどのよう気持ち、考え方で生きているのか?それを知りたい」私は父に相談して行動に移しました。その時紹介してもらい出会ったのが宮島牧人牧師であり、こうして私は原町田教会に導かれました。
自分がここにき始めた頃は、症状にもかなり落ち着きが出てきて、なんとか普通に日常生活を送ることができていました。しかし、丁度この頃は高校2年生になったタイミングで、今度は進路や受験勉強を真剣に考えなければならない時期になっていました。
自分は元々主要科目の英語、数学が得意じゃない上に、委員会も積極的にやっていなかったので、大学に行ける保証はないと思っていました。そして何より、ずっと抱えている持病がいつまで続くか分からない以上、自分は将来まともに働けるのか、家族に心配をかけるんじゃないか、というように、とにかく不安で押しつぶされる思いでした。そのような状況の私でしたが、教会に通ううちに、私の気持ちを支え、軽くしてくれる御言葉に出会うこともできました。その中で特に好きなものを紹介します。

マタイによる福音書6章33節~34節
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」

この御言葉は、先の見えない不安を抱えていた私を励ましてくれました。もちろん御言葉だけではなく、教会に通い始めたばかりの私に、優しく色んなことを教えてくれた教会員の方々、最初人見知りだった私に仲良く話しかけてくれた青年会の仲間、そして私をここに導いてくれた神のおかげで今の私があります。私はもう何年かこの原町田教会へ通っていますが、周囲の人や家族の支えもあり、疾患は大学へ上がったタイミングでほぼ完治させることができました。
この原町田教会で受け取った多くの御言葉や経験は、苦しい時も「自分には見守ってくれる人がいる、祈ってくれる人がいる」そう思わせてせてくれました。
これからも、青年会の仲間や教会員の方々、そして、この巡り合わせに導いてくれた神に感謝し、これからも元気に生きていこうと思います。

(10代)